2018/01/08

詳しいプロフィール

こんにちは、健「口」長生き習慣の研究家、口腔外科医の古舘健です。

私は青森県にある、つがる総合病院で歯科口腔外科医長をしていながら、日々の中に取り入れたい健「口」習慣を提案しています。

北海道大学歯学部卒業後、 日本一短命の青森県に戻り、弘前大学医学部附属病院、脳卒中センターや腎研究所など複数の病院で地域医療に従事してきました。

 

両親は歯科医師ですが、継ぐように言われたことはありません。それにも関わらず私が歯科医師を志したのは、高校の仲間がきっかけでした。

私は、青森県十和田市にある三本木高校でハンドボール部に所属し、キャプテンとして30人の部員を率い、新人戦では28年ぶりの優勝を飾ることができました。

しかし、自分の力ではなく仲間の力でした。とくに、チームが一つになれたのは、親友のおかげです。

 

その親友に「片方の耳が聞こえないんだよね」と相談されたことがありました。

私は、親友の言葉を気にも留めず、「えっ!じじいじゃん」とからかいました。

しばらくして、親友はグリオーマ(悪性脳腫瘍)が見つかり緊急手術を受けました。

 

あの声を大事にしていれば、と悔やみました。

私は、困難な状況でもいろいろなことにチャレンジしたい、と思っています。

その理由をお話しさせてください。これは学生時代の話です。

 

地元の高校に入学

16歳のとき高校に入学した。4月の青森県立三本木高校体育館での入学式。

クラスに知り合いはあまりいなかった。

中学の頃は、勉強も運動もそこそこで、ダサくてモテないカードゲームオタクだったからだ。

 

中学の先輩からの誘い

入学式が終わり家に帰ろうとすると、門の前で中学のK先輩に声をかけられた。

「おっ古舘じゃん!もう部活は決めたの?」

(三本木高校の門の前)

「お久しぶりです。ちょっと、まだです。テニスに興味があります」

「俺、ハンド部になんだけど、とりあえず見学だけこない?勉強と両立できるよ」と先輩は言った。

「ありがとうございます!もうちょっと考えさせてください」

「早く決めろよ・・・」と先輩はニヤリと笑った。

野球部より辛い部活

教室でクラスメイトと部活について相談していた。

「健くん、部活決めた?」とクラスメイトは言った。

「テニス部かハンド部にしようかと思っているよ」

「ハンド部だけはやめた方がいいらしいよ。一番きつい部活だから。野球部の練習よりきついらしい。しかも休みは正月とお盆に1日しかないって」

「えっ!?本当?K先輩はそんなこと言ってなかったけどな」

次の日、K先輩に連れられ、グラウンドに行った。

フットサルと同じ広さのコートにゴールが2つ。

コートには新しいジャージを着た新入生が数名立っていた。

その周りには体の大きな先輩たちが囲んでいた。

(ハンドボールのゴール)

鬼監督の教え

毎日のハンドボール部の練習は、緊張感がいつも漂っていた。

ミスが続くと、監督の周りに部員が整列する。

監督からは高校3年間で1000程度の教えを受けたと思う。こんな感じだった。

 

教え1「情けは人のためならず」

他の部活の応援に行くように教えられた。例えば、野球部やサッカー部だ。

自分たちも練習もしている。応援なんて行かなければ、その日の練習は終わりだ。炎天下の中、自分たちの練習が終わってから応援しても意味があるのかと半信半疑だった。

「情けは人のためならずだ。巡り巡って自分に返ってくる」と監督は言った。

 

しかし、「情けは人のためならず」は本当だった。

ハンド部の大会には、会場を埋め尽くす仲間が応援に駆け付けてくれた。

応援が力になり、1点差でライバル校に勝利することができた。28年ぶりの新人戦優勝につながった。

 

教え2「勝ちにこだわれ」

負けても得られることはあり、失敗は成功の母だともいわれている。

しかし、監督は言った。「勝ちにこだわれ!負けて得られることも多いが、勝って得られることの方が多い。負けたらなぜ負けたのかは分からない。でも勝てばなぜ負けたのかが分かる」

勝ちにこだわる姿勢を教えられた。最初から負けて何かを得ようとするのではなく、負けないようにどうすればいいのかを考えた。

 

教え3「信用を崩すのは一瞬だ」

荒れ果てた男子ハンド部の部室を見た監督が声を荒げた。

監督「なんだ!?あの部室は!?掃除が全くされてないじゃないか!!あれを見た人はどう思うのか考えたことがあるか?!練習していてもいくら強くても勝てても、整理されていない散らかった部室をみたらなんて思うんだ!?」

信用を積み上げるには時間がかかるが、崩すのは一瞬だ。

 

教え4「感謝」

監督「陰で支えてくれている人に感謝できているか?」

試合で勝てるのは支えてくれる大勢の人がいるからだ。保護者会が遠征費や合宿費を出してくれていた。休日返上で大会を企画・運営してくれる先生や関係者がいた。

「プレーするだけじゃだめだ。影で支えてくれる人たちに感謝できなければ、ダメだ。とりあえず、すれ違った人には挨拶しろ!掃除のおじさんでも誰でもいい。元気な声であいさつしろ!」と監督は言った。

(校舎と学びの木)

キーパーになりたい

高校1年の初夏。先輩たちの県大会の決勝戦、体育館で先輩たちの試合を応援した。応援席は三本木高校と対戦相手の高校の生徒で埋まっていた。

コートのベンチには選手、監督が約20人ずつ座っており、緊張した雰囲気が会場には漂っていた。

 

3年生と2年生の先輩たちの姿を応援席から声が枯れるまで応援した。

正確には開始そうそうで叫び過ぎて、声は枯れた。

 

決勝の相手は格上の青森商業高校。

これまでの対戦成績は圧倒的に相手が有利だった。

しかし、決勝の試合は終始優勢で進んだ。

 

ゴールキーパーのK先輩が相手のシュートを止めまくったのだ。ことごとく相手のシュートをシャットアウトした。

先輩たちは高校総体で優勝し、全国大会出場の切符を得た。

 

「俺もあんな風になりたい。どんなシュートも止められるキーパーになりたい。」K先輩の活躍を見ながら私は思った。

 

「監督、自分にキーパーをやらせてください!」

「しかしな、背が高い他の人をキーパーにしようと思う。他のポジションを頑張ってほしい」と監督は言った。

キーパーは180-190㎝の身長があったほうが断然、有利だ。

私にとって、キーパーが適正なポジションでないことは誰が見ても明らかだった。

私は「どうしてもキーパーになりたいです!」と譲らなかった。

(ハンド部の部室前)

最高のホワイトクリスマス

高校1年の冬。強化合宿で隣町の合宿所のグラウンドを走ったことがあった。

12月24日の21時、周りは街灯がないため、うす暗かった。

練習道具と勉強道具をもって、隣町の体育館に練習合宿をしていた。

 

練習試合で、チームはミスを連発した。

監督は声を荒げた。「お前ら、グランドの外周を10周走ってこい!」

 

罰走だ。400メートルトラックを10周。時間は21時だ。

偶然、親友と並んで走っていた。

 

「クリスマスの夜にグラウンドを走るってどうよ?」と私は言った。

2人は思わず苦笑いした。そのとき、雪がチラチラ降ってきた。青森の冬は寒い。

思わず走りながら笑った。

 

「最高のホワイトクリスマスだな」と親友は言った。

間違いない。一生忘れられない最高のクリスマスイブだ。

 

絶対的スター不在のチーム

高校2年。県大会の決勝戦で負けて、3年生の先輩は引退した。

新しいチームで新人大会に向けて練習が始まった。

でも絶対的なスターはチームにいなかった。

 

大きい身体、卓越した身体能力、強力なリーダーシップは誰ももってはいなかった。

 

土日には県外の高校との練習試合が頻繁に行われた。

狭いところからもゴールに向かい飛び込む!

誰よりも早くサイドから飛び出し、走り、ロングパスをキャッチする。

相手のキーパーとの1対1でシュートを決める。

そして決めた後は得意のガッツポーズ!チームを鼓舞し、皆を盛り上げる。

苦しい場面でも、相手がどんなに強くても、得点をあげる。

エースが、そんな存在だとしたら、俺らのチームのエースは親友だった。

(親友のナイスプレー)

じじいの予兆と緊急手術

部活の帰りに親友と歩いたことがあった。突然、親友は悩みを打ち明けてきた。

体育館から高校までの距離だ。

歩いて約15分。自分は自転車を押していた。

 

「最近、片耳がよく聞こえないんだ」と親友は言った。

私は「耳が聞こえなくなった?」「えっ、じじいじゃん!」と言った。

相談された意味がよく分からなかった。

 

「バカにすんな!!」と親友は言った。

親友はいつも通りの笑顔と声だった。

そのときの親友の相談が重い病気の症状の兆しだと気づくことができなかった。

 

親友は1ヶ月半の間、近くの病院に通院しており、検査を受けていたが、聴力低下の原因は分からず、経過観察を受けていた。

 

原因不明の不調が続き、親友の両親は、東京の専門医を訪ねた。

先生は画像の結果を見た瞬間、すぐに東京の病院に来るように言った。

その画像にはすでに悪性の腫瘍が写っていたのだ。

 

東京の病院で緊急手術が終わった。

親友の命は助かったものの、声と半身の動きを失った。

それでも両親の前で泣くことはなかったという。

担当の看護師さんの話では、両親が帰った後に1人病室で泣いていることが度々あったそうだ。

 

ある日、親友が病院の外を散歩していたときのことだった。

半身を動かせない親友は車いすにのり、両親が後ろから車いすを押した。

病院の外を周り、桜並木にさしかかった。

(病院の隣に咲く桜)

親友の目の前に満開の桜並木が広がった。その桜をみたとき、親友は初めて両親の前で泣いた。

 

そのとき、親友が何を想ったのかはわからない。

親友はそのとき初めて両親の前で泣いた。

 

守れなかった約束

高校3年。親友は手術の後、抗がん剤と放射線の治療を続けていた。

吐いたり具合が悪くなったりしながらも試合のたびに東京から青森まで車いすで応援にかけつけてくれていた。

 

約束した。

「俺らがお前を全国大会につれていく。だからお前も病気を治せ」

(親友を囲む私たちチームメイト)

当時、悪性腫瘍が、がんということを知らなかった。医療は万能で治療を受ければ、病気は良くなると思っていた。

 

「頑張れ!」

「大丈夫だ!」

「応援している」

こんなことばかり言っていた。

どれだけ親友を傷つけていたのだろうか。

 

 

親友との約束を守りたい。

日々の練習にも力が入った。

親友が応援に来てくれた新人戦。

28年ぶりに優勝。ライバルの青森商業高校に1点差。
力は完全に相手の方が上だった。応援が力になった。

女子ハンド部、野球部、サッカー部、吹奏楽部、空手部、バスケ部、バレー部、テニス部、バドミントン部、クラスメイト、学年の同期、後輩たち、皆が学校を上げて応援に来てくれた。

 

(相手の7mシュートを止めた瞬間)

そして、全国大会出場をかけた高校総合体育大会ハンドボール決勝戦。

 

私たちは負けた。

親友と一緒に全国大会に行くという約束を守れなかった。

悔しかった。

しかし、一番悔しかったのは、応援する声を出せず、コートに立てない親友だったはずだ。

 

 

東北大会での親友の活躍

東北大会の会場。全国大会には出場できないため、東北大会が自分たちの最後の大会になった。

親友は応援にかけつけてくれた。

対戦相手は東北の雄、秋田1位、羽後高校。

 

親友は自分のユニフォーム、背番号3を着た。

車いすで会場に入った。車いすを降りた。

一歩、また一歩。ゆっくりと歩いた。

 

親友はコートに立った。

手術の後、医師から「歩くのは無理だろう」と言われていた。

術後の苦しいリハビリを続けていた。

私はハッと気づいた。
親友もずっと一緒に戦っていたのだ。

 

僅差で一回戦、二回戦を勝ち進み、東北大会で3位入賞を果たした。

(相手エースのシュートをセーブした瞬間)

親友は順調に回復したかに思えた。

 

1ヶ月後、再発が見つかり、17歳でこの世を去った。

高校3年、文化祭の日だった。

最後の最後まで頑張った。

約束を果たしたい

「全国大会につれていく」という親友との約束。

守れなかった思いは、大学でもハンドボールを続ける力に変わった。

 

当時、北海道には24のチームがあり、1から4部に分かれていた。

ハンドボールは、ゴールキーパーも入れてコートに立てるのは7人だが、
入部当初、北大ハンドボール部は7人ギリギリで、1部の最下位だった。

 

大学1年。入部して最初のミーティング。

キャプテンは「まず、1部の4位を目指そう」と言った。

 

私は衝撃を受けた。

「目指すのは、1部の1位じゃないのですか?」と言った。

入部して数日にも関わらず「全国にいけるような練習にしませんか!?」と食らいついた。

 

でも、上手く伝えることができなかった。

声を出せる。走れる。練習できる。

目標を一番にしない理由が当時は分からなかった。

 

「練習は週5から週4に減らさないか」
そんな意見さえあった。

 

親友との約束を守りたい、私はただ焦っていただけなのかもしれない。

大学ではよく泣いた。負けて悔しかったからだ。

よく叫んだ。勝ちたかったからだ。

よく走った。

よく怒った。

がむしゃらだった。

最高の仲間になった。

 

約束の全国大会出場

大学4年生。北海道大学として12年ぶりに道大会で2位になり、全国大会に出場することができた。

敢闘賞、優秀選手賞などの賞を獲得した。

北海道の学生選抜メンバーにも選ばれ、ドイツやフランスで本場のハンドボールに触れる機会もあった。

「絶対に無理」と言われながらも、自分がここまで頑張れたのは、親友と仲間のおかげだ。

(全国大会の記念Tシャツ)

私は、ある計画をたてた。桜の木を親友の実家に植える計画だ。

ハンド部、クラスメイト、学年の仲間の有志で資金を集め、苗木を買い、桜の木を植えるという計画だった。賛同してくれる人もいたが、反対する人も大勢いた。

「今さらそんなことしてどうなるの」「気持ちは分かるけど、気持ちを押し付けないで欲しい」という人もいた。しかも、想像以上に桜の苗木は高価で、集めたお金ではとても購入できなかった。

 

一番理解を示してくれたのは、親友の両親だった。

(親友の家に咲く桜)

植えた桜は彼岸桜。

この桜は2度咲く。春と冬。

青森の冬は冷える。それでも、この桜は2度花をつける。

桜を見るたびに、今を生きなければ、と思う。

 

高3のとき、医療の限界と命の重さを知りました。

だからこそ、私は歯科医師を目指しました。

歯科医師は「口」から病気を予防し、患者と一生つき合う仕事だと、父が訥訥と語ってくれたからです。

 

私はこれからもいろいろなことに挑戦したいと思っています。

親友が病気に立ち向かったこと、最後まであきらめなかったことを思えば、何でもできると思えるからです。

これまでずっと、挑戦を続けてきました。このブログもその一つです。

 

私が理想とするのは、病気で後悔しない世界です。

このブログを通して、健「口」情報を発信していきます。どうぞよろしくお願いいたします。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

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