2017/09/26

ある日の買い物で、気になってしまった小さなこと

 

先日、買いものに出かけたときに、あれれ、と思ったことがありました。

今回、気づいたこと。
それは、「名前」「目線」をおろそかにしてはいけない、ということです。





先日、買いものに出かけたときに、
「お客様、こちらにどうぞ」と担当者が言いました。

あれれ、と私は思いました。
私はすでに「名前」を担当者さんに教えていましたから、私のことを「名前」で呼ぶこともできたのです。

担当してくださった方が、「関係性」で呼んだとき、学生のころの記憶がよみがえりました。

「派遣くん、よろしくね」
「派遣くん、これをあそこに運んでよ」
と言われた記憶でした。
学生のとき、日給5000円の某派遣会社に登録していました。
残念だったのは、ある料亭に派遣されたとき、「派遣くん」と呼ばれたことです。
派遣くん(はけん)の「は」をとると、俺の名前(けん)なのにね、と当時は思っていました。

なぜ今回「関係性」で呼ばれたことに違和感を感じたのか考えてみると、「関係性」のなかで存在が「一般化」されてしまったからだと気づきました。

先日、読んだ「幸福の資本論」のなかで、西欧人は「個人」、東洋人は「間人」という箇所がありました。


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<西洋人の認知構造が世界をもの=<個>へと分類していくのに対し、東洋人は世界をさまざまな出来事の<関係>として把握する、ということです。この世界認識のちがいが、西洋人が『個人』や『倫理』を重視し、東洋人が『集団』や『人間関係』を気にする理由です。すなわち西洋人は『個人的』で、東洋人は『間人的』なのです。>

参考:幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」 P203 橘玲著 ダイヤモンド社

われわれが「関係性」のなかで世界を把握しているとしたら、「関係性」でお互いを呼び合うことに違和感はないはずです。

今回のお店の担当者と私(客)の関係性でみれば、「お客様」でも決して間違いではありませんが、「個人」ではなく、一般化されたことが少し残念だったのです。

同じように、「患者」と私(医療者)の「関係性」でみれば、「患者さん」と私が読んでも間違いではありません。

しかし、実際はどうでしょう。

私が病院で、「患者」のことを「患者さん」と呼んだ場合と、「名前」で呼んだ場合ではお互いが治療に取り組む姿勢や信頼関係などいろいろなことが変わってくるはずです。

「名前」を覚えるのが私自身、そんなに得意ではないのですが、「名前」を呼ぶことで、世界から「個人」として区別される、と気づきました。

 

 

もう一つ今回の買いもので気になったのは「視線」です。

担当者は無意識のうちにキーパーソンと思われる方に「視線」を向けてしまっていました。

男女であれば男性、
同性であれば年長者、
親子であれば親、
そちらを見てしまうことがあります。

 

自分の「視線」に気づいていないのは危険です。
「視線」を向けられた方ではなく、「視線」を向けられていない方が気づいてしまうからです。

まったく「視線」を向けていないとしたら、私にとって重要ではないというサインを送り続けているようなものですし、「視線」を向けていない方がキーパーソンであってもおかしくはありませんよね。

異性の方にも注意したほうがいいですね。
異性の方に「視線」を向け過ぎると、勘違いされたり、相手のパートナーが気づいてやきもちを焼かれてしまうかも知れませんよ。

「名前」「視線」については、自信や興味関心など心理学的な理論もありますが、それは専門家に任せ、今回は私の経験に基づいてお話しました。

病院では患者の取り間違いを避けるためご本人に「本名をフルネームで名乗ってもらう」ことになっています。

これは、誤認による事故を防ぐのはもちろん、「患者」という一般化された存在から、「個人」という個別の存在に引き上げる役割を果たしているのかもしれません。

診察中に「視線」をパソコンに向けてしまうことも多いですし、小さな子どもの場合、保護者を見て、手術の説明をしてしまったこともありました。

これからはなるべく「名前」で呼びかけ、「視線」を傾けるようにしますね。

 

あいかわらずこんな小さなことが気になってしまうおれって……。

 

参考:

 

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